Festival de Frue 2018

  • アコースティックとエレクトロニックの違いを超え、音楽そのものに向き合う豊かな2日間の体験。
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  • 無事、2度目の開催を迎えたFestival de FRUEに今年も参加することができた。『無事』というのは、昨年12月と今年3月の2度にわたるクラウドファンディングの成功を経て開催決定となった経緯があったからで、自分も微力ながらファンディングに参加した。昨年は、独自の審美眼でパーティーをオーガナイズしてきたFrueが初めてフェスティバルを開催するということもあり、期待はまさに未知数、自分にとって何もかもが新鮮に感じられた部分があったが、こうして今年の思い出を改めて振り返っていると、昨年よりもう少し落ち着いて、音楽そのもの自体にじっくりと向き合うことができたように思う。 メインステージであるThe Hallで、鬼才Burnt Friedmanと、イランの伝統打楽器トンバク/ダフの奏者Mohammad Reza Mortazaviによるプロジェクト、YEKのライブの途中から今年のフェスティバルをスタートさせた。2人の高度な音楽的対話という究極的な空間に、ただただ音の波を追っては恍惚となる瞬間が次々と展開していく。Friedmanが機材から発し、自在に加工し、繰り出してくる音と、Mortazaviが自身の手先の微細な表現でトンバクから発する音は完全に等価なもので、そこには電子音楽や伝統音楽といった区別は無意味で、ただただ”音楽”そのものがあった。サウンド的にどこか共鳴する部分もあり、2010年にUNITで見たClusterのライブのことを思い出していた。ミュージシャンが人生を通して、ある楽器、ある音楽を究極に求めていくことの凄まじさ、そうして重ねてきた長い年月の深さが感じられる2人の姿に、底知れぬ程の畏怖の念を感じたものだったが、YEKのライブにもそれと同じ空気を感じ取った。 Mortazavi本人はもちろん、今回出演したYamandu Costa、Billy Martin、Nels ClineやU-Zhaanらもまさにそうだが、身体を使って表現するアナログ楽器をとことんまで極めたミュージシャンは凄腕、超絶と呼ばれ評価されている。だが、電子楽器のミュージシャンについてはどうだろうか。楽曲やライブパフォーマンスを高く評価されることはあっても、どこか「機械を使った音楽だから」という先入観が今もあるのではないだろうか。電子楽器を使うミュージシャンは、実際には、人間の手と感性を駆使し、音を操っている。いくら機械を使っているとはいえ、正真正銘、人間が奏でている楽器であり、音楽なのだ。Friedmanがその良い例だ。エレクトロニックミュージックに親しんでいる人々には既に少なくとも言語外では理解されている事のように思うが、デジタルとアナログの境界がどこまでも曖昧に進化している中、広い意味での音楽愛好者の世界で、もっとそういう視点でも評価が進む事を願う。
    Grass Stageに戻ると、後半戦に突入したYoshinori Hayashiが、野外でのフェスということを意識しているのか、思った以上にレイヴィーな、気持ちBPM速めの印象のプレイを繰り広げていた。Powderの出演を前にどんどんとステージに人が増えていき、期待度の高さが目に見えて感じられる。Powderのセットは始まってすぐから大盛り上がりを見せていた。彼女のセットを体験するのは今回が初だったが、前評判に違わぬ実力派の腕前を実感した。絶妙なトリッピーさを効かせながら、足元は生真面目にしっかり固めてくるスタイルは、奇抜な楽曲を使ってもなお踊りやすい。昨年は、踊りに来た!という人の姿が気持ち少なめだったが、今年はぐっと増えていた事が素直に嬉しかった。 少し早めに切り上げ、The Hallで行われるBruno Pernadasのバンドのライブへと向かった。Festival de FRUEは、今年初の試みとして、出演者の楽曲を集めたプレイリストをSpotifyとApple Musicで公開していたのだが、そこで初めて知って一番気に入ったのがBruno Pernadasで、この夏は彼の曲をかなりローテーションして聴いていたのだ。 ちょうど気持ちのセッティングもうまく整ったタイミングだった事もあるが、蓋を開けてみれば彼らが正直、今回のベストアクトだった。録音音源では音楽的引き出しの多さ、作り込まれたウェルメイドな感覚が際立っていたものの、ライブではそれに加えて圧倒的なエンターテインメント性、ダンサブルさまでもが備わっていた。捻りのきいたキャッチーなサウンドも、その音像も、そして見た目も、70年代の洒落たヨーロッパ映画がそのまま飛び出してステージに現れたようだった。腰を気持ち低めに構えた佇まいで、ちょっと西海岸ハードコア的なテイストを感じさせるベーシストの演奏が、楽曲をライブ向けに力強く牽引する主力となっていた。作り込まれたレトロさを注意して観察すると、ところどころに現代的な要素がエラーのように紛れ込んでいる。古い映画の世界がそのまま…というより、実はそれが最新鋭の立体ホログラム画像で作られていた、という感覚かもしれない。 バンドサウンドに馴染みのない層でも、また普段は大人しく音楽を聴いている人も、誰もが踊れてしまいそうなサウンド感は、ステージ上を見ても明白で、舞台上手側に3人並んだホーンセクションの中、トランペッターは今にも全力で踊り出しそうなところを何とかスタンド前に留まっているような感じで、終始踊りながら演奏する姿が印象的だった。演奏面の実力も凄まじく、彼のソロパートでは音につられて完全に意識がどこか遠くに行ってしまい、ソロが終わった瞬間にそれに気づき、やられた、と思った程だ。ライブ全体を通して涼やかな風のようなヴォーカルを聴かせていたMintaが、途中メガホンを使ってダブ処理したようなヴォーカルを披露する姿も何とも素敵だった。ライブ全編を通し、文字通りの夢の世界だった。
    熱気冷めぬまま一旦キャンプサイトに戻ったのち、Sam Gendelのバンドのライブの途中頃に再度The Hallに戻った。過去なのか未来なのかわからないところから響いてくる幽玄な音は、ジャズだとか現代音楽といった枠をゆうに超えた神々しさで空間に響いている。メンバーが向き合って三角の形で座ってる感じがまたどこか儀式的で、終わりやはじまりのないサウンドがその三つの頂点を循環しながら紡ぎ出されていくようだった。ちょうどその前に見たBruno Pernadasのサウンドは明快で色鮮やか、コントラストが強いものだったが、こちらはとことんアブストラクトで、薄く淡い色合いが曖昧に折り重ねられていくようなサウンドだ。 フードエリアとホール側を行き来し、上機嫌で飲食を楽しんでいるとすっかり酔いも進み、気づいた時にはTheo Parrishによる一大ダンスボールが繰り広げられていた。昨年も実感した通り、確かにこのホールの音響は最高にセッティングされている。とはいえ、この、これまでどのクラブやフェスでも味わった事のない程にえげつない、力強すぎるグルーヴは一体どこから出てくるのだろう?思わずDJブースに立つTheo Parrishを仰ぎ見てしまう。今プレイされている曲がどんな曲であるかを耳で認識するより前に、圧倒的なグルーヴが先にやってきて、グルーヴそのものを体験しているようだった。グルーヴを直訳すると”溝”になるが、この時はまさに、全身全霊がレコードの溝に放り込まれ、翻弄される感覚に陥っていた。ああそうだった、ハウスってこれ位パワフルに盛り上がるものだった、と否応なしに再認識させられた。
    昨年同様、夜間は冷え込むこともなく、7FO、YouforgotのBPM抑え目、穏やかなサウンドの中で2日目の朝を迎えた。温泉でリフレッシュしてからGrass Stageに戻ると、Campbell Irvineが新世代感を通り越し、すでに知らない星の宇宙人かと思うような、パンチの効いたサウンドをぐいぐいと押し出し、ドライヴさせていた。興味深いものの、ちょっと朝には合わず、宇宙酔いしてしまった。ちょうど食事の頃合いでもあり、The Hallに向かい、Mintaの爽やかなセットでチルすることにした。 Grass Stageに戻ると、Acid Pauliがスネークマンショーのネタらしき日本語のトークの音源を披露していた(その後もセット中に同グループの音源を使用し、フロアに混乱と笑いをもたらしていた)。先のCampbell Irvineの音がまるで宇宙人だと感じていたところに「軌道修正!」「地球へ帰還します!」というセリフが織り込まれるという妙なミラクルが発生し、思わず笑ってしまった。心なしか控えめだった去年のホールでのセットよりも、明らかに生き生きと本領を発揮しているように感じる。途中、ぱらぱらと雨が降りだした時には、次で雨がテーマになったトラックを披露。その音が終わる頃、雨雲も去っていくという再度のミラクルぶりを見せ、真に野外パーティーでの見せ方を理解しつくしているなという印象だ。群馬・桐生のアウトドアショップPurveyorsが設営を担当したというちょっと可愛らしいオーガニックな印象のステージも、彼の雰囲気によく合っていた。昨年はやや唐突な登場だった美空ひばりの曲も、今年のチョイスの”越後獅子の唄”は全体に馴染んで楽しめた。奇抜ながら温かみのあるサウンドを展開する彼の存在は、当フェスティバルきっての、巨大すぎる程に広がったセーフティネットだ。
    Acid Pauliのセットはどこまでも付き合えそうな感じではあったが、U-Zhaanのライブを見にThe Hallへ向かう。私自身が思い出深いところではレイハラカミとのコラボレーション、そして最近では鎮座Dopeness、環ROYとの、タブラでヒップホップのトラックを構成するという、どちらかというとモダンで意欲的な楽曲群が印象深いU-Zhaanだが、今回はタブラと同様、インド周辺地域のバイオリン的な古典楽器・サーランギー奏者のナカガワユウジと2人で、徹底してインド古典音楽のセットを披露するという。まさに音楽好きが多く集まるフェスティバルへの攻めの姿勢に感じた。ステージでは、U-Zhaanが、なにそれ?と言いたくなるようなシチュエーションの主題も含む(インド古典音楽ではさまざまな季節・時間帯・シチュエーションなどに合わせた曲があるそうだ)楽曲の説明をしては、さらっと超絶技巧を披露する。中でも、雨と嵐の様子を表現した曲が印象的だった。雨音、雷が落ちる様などを、タブラで鋭角的に表現していく様にはただただ呆然。打楽器が主旋律で弦楽器が伴奏という、西洋音楽ではあまり見ない形が成り立っている事自体も面白かった。最後のほうの曲では、伴奏に徹していたサーランギーがさりげなく前に出てきたり、また伴奏に戻ったりという部分もあり、さじ加減の絶妙さに思わず息を巻いた。U-Zhaanのライブは今年度のダークホースだった。 ブラジリアンギターの天才、といった謳い文句から、才気走った鋭い印象の人柄を予想していたが、ギター片手に現れた何だか想像よりも穏やかな印象の人物がYamandu Costaだった。曲ひとつひとつの完成度がとても高いこともあり、どれも喉越し良く、さらっと聴けてしまうのだが、ちょっと待って、今の曲、そういえばギター一本で演奏してたよね?と、一瞬脳のほうがついていけなくなってしまうような愉快さがある。彼が使用している7弦ギターは、元はショーロやサンバの演奏用に使われていたギターから発展したブラジル式のものとのことだが、その1本多い分の低音弦の重みが何とも心地良かった。曲間には、日本語の挨拶を入れたり、銀色のストローの伸びたマテ茶用の容器に湯を注ぎ「これはマリファナじゃなくて、マテ茶だよ」と言いつつ飲んだりと、ステージングもプレイスタイルと同様、何とものびのびと天真爛漫だった。一流ミュージシャンの上質なステージであると同時に、その楽曲の魅力と同様、家に遊びに来たような、とても親密で暖かい空間でもあった。不思議と子供たちが集まっていたのにも納得だ。
    思い出しても、一体いつの間に日が暮れていたのだろうと思うが、フェスティバル最後のアクト、illy B’s Organic Sessionこと、アメリカのジャズファンクバンドMedeski Martin & Woodのパーカッション担当、Billy Martinがリードする即興セッションの時間となっていた。Billy Martinはステージ下手側に陣取り、ドラムセットの周囲にいくつもの種類のパーカッション楽器を置いたセッティングで、上手側に他の出演者をゲストミュージシャンとして次々と呼んでは、セッションするという構成だった。本人の希望でリハーサルはしていないとのことだ。さて、その内容は凄腕ミュージシャン同士が対戦する将棋の百面指しのようで、Billy Martinの周りには火花が散っているのではないかと錯覚するほど凄まじいものだった。あらゆるパーカッションを駆使して狙った音像を削り出していく。特に、Yamandu Costa、Bruno Pernadasバンドのホーンセクション3人とのセッションが面白く、Yamandu Costaとはごく短時間ながら、まさに頂上決戦の様を呈していた。 去年と比べて一番の違いを感じた部分は、The HallとGrass Stageの流れが完全に別のものになっていたことだ。昨年は同じヴィジョンをそれぞれのステージで描き出すとでも言うのだろうか、ライブとDJ文化の両方への造詣が深いFrueらしさを感じる組み方に思えたのだが、こうして分けることでそれぞれの楽しみ方を選べるようになったとも言える。集客数は、体感では1.5倍から2倍近く増え、若めの層も増えた。一方。気になる点をあえて挙げるとすれば、特にキャンプサイトのあるGrass Stage側でトイレの数が少なかったこと(去年よりは増えていたが)と、飲食物の持ち込みが一切禁止だったことだろうか。タイムテーブルでも子連れのファミリー層に配慮している事が感じられたが、それであればなお、せめてソフトドリンクの持ち込みまでは規制を緩めてほしく感じた。 今年、その歴史を一旦終了させたTAICOCLUBの当初からの変遷を思い返せば、フェスティバルがどういった方向に成長するかは、(仮に主催者の脳内に最終的なヴィジョンがあるとしても)なかなか予測し難い。いち参加者側の自分に言えることがあるとすれば、来年はまた、今年とはまた別な、新しい音楽との出会いの場になること。そして、もしFestival de FRUEが10年後にも継続しているとしても、10年後の自分もきっと楽しめるだろうなということだ。