Ruby My Dear - Remains of Shapes to Come

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  • 2006年に制作されたドキュメンタリー・フィルム『Notes On Breakcore』は人々でごったがえすフロア、ヨーロッパ各地のフェス、そしてアメリカでのブレイクコアの広がりなどを通して活性化の一途をたどるシーンの様子を描き出していた。そのインタビュー中で、Ad NoiseamのボスNicolas Chevreuxはジャングルやハードコアテクノ、EBMなどが対立しつつも同一化していく当時のシーンは今後「コア・ジャンル」的なものに進化するか、再び死に到るかのふたつにひとつだと語っていた。そして、次なるリヴァイバルに備えてブレイクコアをこよなく愛する小さなグループが生き延びていくだろうとも語っていた。それから6年が過ぎ、どうやらChevreuxが危惧していた後者の事態、つまりブレイクコアの死がはたして現実のものとなったようだ。しかし、Chevreuxはただでは転ばない男だった。Ruby My Dearなる才能を擁し、いま再びブレイクコアの息を吹き返そうとしている。 フランスはトゥールーズ出身のJulien Chastagnolは2008年にDoc Colibri名義でひっそりとデビューを飾り、いくつかの零細ネットレーベルからデジタル・リリースでのEPを数作発表しながら2010年にはRuby My Dear 名義での作品を発表しはじめている。RotatorのPeace OffやAcroplane Recordingsでリリースを重ねながら、Chastagnolはレゲエやアシッド、トランス、ドラムンベースだけではなくフォーク、ファンク、ロックなどさまざまな要素を呑み込んだマッシュアップ的スタイルを続けながら、おそるべき多様性を持ったサウンドと独自のアトモスフィア、強力な楽曲構造を実現させてきた。それはむしろThelonious MonkやOrnette Colemanといったフリー・ジャズの巨人たちにも近しいアプローチであるとも言え(その姿勢は彼のアーティストとしての名義やアルバムタイトルにも表れている)、Venetian SnaresやSquarepusher、Aphex Twinといったブレイクコア/IDMのオリジネイターたちにも匹敵するほどのものであったと言っても良い。その多様なルーツの混在、卓越した音楽性の高さこそRuby My Dearの本質であり、同時にこのアルバム『Remains of Shapes to Come』を実に魅力的なものにしていると言えよう。 アルバムは"Maiden"で厳かに始まる。ブロークン・ビーツとメランコリックなコードが組み合わされた穏やかなサウンドは、ワインをたっぷりと飲んだ時のような心地よい酩酊にリスナーを誘う。しかし、それも束の間、アルバムはフロアライクかつ戦慄の展開を見せ始める。"Rubber Head"はまさにこのレコードがAd Noiseamからリリースされるべき理由を雄弁に語っている。ディープかつダークで、極めて凶悪なダブステップがRuby My Dearならではの性急なサウンドに呑み込まれて金属的な反復にリスナーは圧倒される。日本風のブレイクコアといった趣の"Karoshi"は美しくメロディックでありながら、どこか異次元の感覚だ。アルバムはここかたさらにIni Kamozeの定番サンプル・ソース"World-A-Music"をレゲコアやベース・ヘヴィーなダンスホールとマッシュアップしたパーティ・チューン"Uken"へと畳み掛けていく。 "Syuma"や"L.O.M."といったトラックはアルバム中最も長尺なトラックであり、おそらく結果的にはアルバム中でも最も個性的なトラックだ。同時に、Ruby My Dearの類稀なる作曲能力が如実に反映された2曲でもある。しかし、アルバム全体を通して聴くと彼の作曲能力はより明確なものとして浮かび上がってくるはずだ。その多様性にあふれる創造性はフルレングスのアルバムという空間で自由に呼吸し、"Dinah"や"Knit for Snow"といったトラックでの静寂さもその狭間でひときわ輝きを増している。このアルバムやRuby My Dearのようなアーティストがその精神を引き継いでいくかぎり、ブレイクコアのシーンが再び息を吹き返すのも決して絵空事ではないはずだ。
RA